【釜師】宮﨑 匠(十五代 寒雉)
宮﨑 匠 略歴
昭和四十四年(1969)生まれ
平成六年(1994)十四代寒雉に師事、現在に至る。
令和三年(2021年1月15日)宮﨑寒雉 襲名
宮﨑寒雉家略歴
能登国穴水町中居は、現在は静かな入江に面した小さな集落ですが、
古くから昭和初期にかけて鋳物師達が多く住み、奈良朝廷や全国各地に鋳物を送り出していました。
その中の一人、鋳物師藤原朝臣宮崎彦九朗義綱は、
天正九年(1581)加賀藩主前田利家公に召され、七尾に移り、後に金沢城下に工邸、
千余歩の俸禄を受け、武具等の鋳造を司っていました。
寛永十七年(1640)頃、五代藩主前田綱紀公は、学芸文化、特に茶道に造詣が深く、
茶道奉行として京都より千叟宗室師を招かれました。
その折、義綱の子義一は茶道を師事し、又鋳造の技を生かして藩の御用釜師として
千叟の指導のもと、多くの御好釜を制作しました。
さらに「寒雉庵」号を賜り、自らは初代寒雉徳翁と号し、正徳二年(1712)に没しました。
御好釜には福寿海釜、鐶付から湯気が出る塩屋釜
三角おむすびの形をした焼飯釜、柏釜、矢筈釜等があります。
その他、梵鐘、仏具等が二十余基現存しています。
その後、代々家業を受け継ぎ現在十四代目に至っております。